< 2025年 7月 店主の独り言 >

 私は中学生の頃まで札幌の北1条西3丁目、駅前通りに住んでいました。

 実家は果物屋で、小さなビルの1階で果物を売り、2~3階はパーラーフジヰというレストラン、4階に住み込みの従業員さんと共に僕ら家族も暮らしていました。僕が生まれる前から周りに土は無くアスファルトで育った町っ子。でも家内は庭のある家だったそうで、草木が好きで夢は山か海のそばに住みたいと言っています。そんな家内が札幌の郊外、盤渓(バンケイ)に土地を持つ方と知り合い、急に5月から畑仕事を手伝う事になりました。雑草だらけの斜面を、鎌(カマ)や鍬(クワ)で草を刈り、土を起し、畝(ウネ)を作ります。動ける男は僕だけなので、ひたすら鎌と鍬で雑草を刈り、土を掘って行きます。

 そんな町っ子の僕でも炎天下の中で数時間も鍬を振りかざしていると苦痛感は消えて、この一振りで30センチずつでも原野が減り、作物を植えていなくても畑が増える事の喜びが感じられて来ます。そしてちょっと大袈裟ですが、北海道の開拓者もこんな気持ちで畑を切り開いたのかなぁと思いながら、僕の頭の中では「母ちゃんのためならエンヤコーラ」とヨイトマケの歌が鳴り響いていました。当然、初日の作業後はヘトヘトになり、帰りの車の運転は家内に頼み僕は助手席で爆睡。そんな僕でも数回作業をする度に、翌朝の筋肉痛も減り体も慣れてきました。

 今は畝を作り種や苗を植えただけですが、作物を栽培するって日本人の本能に刻まれている要素の一つかも?と感じています。山を切り開くのではなく、山から斜面をお借りして表面の草を刈って作物を育てさせてもらい、秋の収穫後は斜面を山にお返しして冬は雪で覆われてお休み、そして来春には斜面をお借りする。いや山だけではなく、陽の光、雨、土の栄養分、ミミズや虫や微生物、自然環境全ての力をお借りして栽培し、その作物をいただいて私たちは生きる事が出来る、いや自然の中で生かされているという気持ちが生まれて来ました。スーパーで作物をお金で買っていると気づかなかった思いが、農作業をしたことでちょっと感じられ始めめた事で、辛い農作業も今では少し楽しみになっています。